第1話:市場調査の罠「でも、私……市場調査はちゃんとしました」——小説で読む起業

この小説では、主人公の洋子が起業家として成長するさまを描きます。

ストーリーはフィクションですが、起業家としての失敗や苦労、成功法則はすべて、起業や新規事業開発における実際の現場での体験、知見に基づいたものです。圧倒的にリアルで生々しい、洋子の起業家としての歩みを、共に見ていきましょう。

第1話:市場調査の罠「でも、私……市場調査はちゃんとしました」

洋子は、大学を卒業して大手の賃貸物件の仲介会社に就職。入社6年目を迎えていた。

入社後1年間は地域の代理店で仲介スタッフとして勤務。熱心な接客で、顧客からも会社からも信頼を築きつつあった。その後、本社勤務となる予定だったが志願して代理店勤務を続けていた。

主人公:洋子

賃貸の仲介をしていると、入居を希望するお客さんからはこんなことを聞かれることが多い。

「前住んでいた方はどういう家具や内装だったのですか?」

賃貸物件の内見では、家具などが何もない空っぽの部屋しか見ることができないため、自分が住んでいるときのイメージが湧きづらいのだ。

かといって、いちいちインテリアコーディネーターに依頼する人は少ないだろう。

洋子は「もっと簡単に、部屋のレイアウトや家具の配置をイメージできるサービスがあれば……」と考えていた。

そこで洋子は、彼氏にこのビジネスアイデアを相談してみた。

商社勤めで海外を飛び回っている彼氏は、海外で知った「インターネットでインテリアコーディネートを完結できるサービス」を教えてくれた。洋子は直感的に「ビジネスになるかもしれない」と感じた。

その日から洋子は、大学で経営学を専攻していたときの教科書を引っ張り出し、1ページ目に書かれていた「市場調査」に早速取り掛かかることにした。

インテリアコーディネート業界の市場規模や成長率、競合環境、顧客ニーズなどを網羅的に調べた結果、小さなプレーヤーが多種多様に存在し、市場シェアの上位を合わせても10%に満たない業界であることが分かった。

「これは、勝負になるかもしれない」

それからは、より詳細な市場調査を経て、サービスづくりやスタッフ集めなどに奔走した。

その後、洋子は会社を退職。そして起業を検討し始めてから1年後、オンラインで完結する便利で低価格なインテリアコーディネートサービスをスタートさせた。

会社の名前は女性から親しみを感じてもらいやすい語感の響きを重視して、「milty (ミルティ)」と付けた。


洋子の前職である不動産仲介会社はとても働き方の自由度が高い会社だった。複業ができたため、会社の枠にしばられずに自分のやりたいことをできた。業務割合も、あるときは50%、あるときは80%、などと柔軟に設定できた。

だから洋子も自分が会社を作るときには、社員が自分らしく生きられること、働き方の多様性を尊重することを重視したいと考えていた。

創業メンバーは洋子を入れて4人。それ以外に業務委託としてインテリアコーディネーター8人が参画した。

立ち上げメンバー

miltyは、オンラインで完結するインテリアコーディネートサービスだ。お客さんはウェブサイトから、コーディネートしてほしい部屋の図面や希望のイメージを伝える。

それを踏まえて、milty契約のコーディネーターがイラストに起こしていく。メディアにも多く取り上げてもらい、お客さんからの問い合わせも増えてきた。

しかし、オープンして1年、一見うまくいっているように見えるが、実際は顧客数がまったく伸びていない。貯金と借り入れでスタートした資金も、急速に底を突きつつあり、絶望にも近い心境だった。

最近まともな食事を食べていなかったことに気づいた洋子は、気分転換も兼ねて少し時間を取り、ランチに行った。オフィスから少し距離があるが、カロリーを抑えた健康食で人気のお店だ。いま流行りの体幹を鍛えるボディメンテナンスサービスを提供するフィットネスジムに隣接している。

お店の近くで働いている友人を誘い、ランチをしながら今の心境を話し始めた。


アキ :「洋子! 久しぶり。元気にしていた? 素敵なお店ね」

洋子:「隣にあるフィットネスジムから派生したカフェみたいよ」

アキ:「そうなんだ、私も今度から使わせてもらうわ」

洋子もこのテナントのことは前から気になっていた。フィットネスジムの創業も順調で、さらにカフェも手掛けるなんて、経営者は敏腕な人物に違いないと、店内を見回しながら改めて感じていた。

アキ:「ところで! 雑誌見たよ! 洋子すごいじゃない!会社から独立して1年でこんな風になるなんて思わなかった」

洋子:「ありがとう! そうなの、お陰さまで順調なスタートで、たくさんのメディアにも取り上げてもらえたの。スタッフも実績や実力のあるメンバーを揃えたし、お客さんからの問い合わせもたくさん受けて、毎日忙しくて」

いや、本当は違う。会社の本当の姿を知ったらアキは何て思うだろう……洋子はそんなことを思った。

アキ:「すごいわね。みんな洋子のことを誇りに感じているよ」

お互いの近況を報告し合ったあと、友人はミーティングの時間が迫っていたため、先に会計を済ませて出て行った。


すると、隣で食事をしていた女性からの視線を感じる。振り返ると軽く挨拶をしてくれた。誰だろう。最近多くの人に会いすぎていて覚えていないのかもしれない。


洋子:「大変申し訳ありませんが、以前お会いしたことありましたか?」

洋子は正直に話しかけた。

するとその女性は、自己紹介もないままに、質問を投げかけてきた。

女性:「はじめまして。先ほどご友人と話されていた内容が、他人事とは思えなくて。あなた事業を興しているの?」

洋子:「はい」

女性:「どんなサービス?」

洋子:「オンラインで完結できるインテリアコーディネートサービスです」

女性:「へえ。それはこれまでの市場にはあまりなかった発想ね」

洋子:「はい」

女性:「業績は実際どんな感じなの? さっきのお友達との話は聞いていたけれど」

洋子:「そうですね……」

アドバイザー:美保

女性は美保という名前で、このカフェに隣接しているあのフィットネスジムを立ち上げて売却した方だという。これは何かの縁かもしれない。まだ時間もある。洋子は今悩んでいることをぶつけてみようと考えた。

話し始めると、悩みをぶつけるつもりが、いつもの起業家モードに。結果的に1時間もビジョンについて語り続けてしまった。せっかくの時間を自分のビジョンを語るだけで終えてしまった洋子だったが、お店を出てすぐ、もらった名刺にあるアドレスに、改めて相談させていただきたいと連絡した。


美保は、固定のオフィスを持っていないらしい。洋子からの連絡を受けた美保は、3日後のお昼、ジム終わりに会うことにした。

待ち合わせ場所は、ジムの近くにあるカレー屋さん。日中はカレーを、夜はバーとしてお酒を出しているようだ。

洋子:「またすぐにお会いいただけるとは思っていませんでした。お時間をいただきありがとうございます」

美保:「いいえ。さて、今日は私にも話す時間を少しちょうだい。業績は具体的にどうなっている?」

洋子:「Webへのアクセス数は毎月伸びています」

洋子は、miltyが絶体絶命の状況だとは、まだ言えなかった。アクセス数が伸びているなんて負け惜しみだと、自分でも分かっていた。

美保:「主要顧客はどういった方々かしら?」

洋子:「オンライン上でのインテリアコーディネートなので、顧客はさまざまです。年齢層もご職業も地域も本当に多様です」

美保:「なるほど」 

美保は、主要顧客が絞り込めていないことが問題の1つだとすぐに見抜いた。早速それを掘り下げていこうかとも思ったが、1年もの間、顧客の絞り込みを放置していた洋子に今このことを話しても分からないだろうと思い、とにかくまずはサービスの現状を聞くことに徹した。

美保:「質問を変えるわ。顧客があなたのサービス……そうだ企業名は何て言うの?」

洋子:「miltyです」

美保:「では顧客がmiltyのサービスを使う理由は何?」

美保はメンターモードが発動し、気づくと、つい問い詰めるような口調になっていた。

洋子:「インターネットで完結するという利便性と、複数のコーディネート案が安価に得られる価格設定です」

美保:「それはmiltyが訴えかけている価値ね。トヨタのプリウスを買う顧客は、環境に配慮した移動をしたいというだけでなく、環境に配慮する自分を演出したいという理由で買うこともある。表向きの理由と本当の理由は異なることもあるの。さて、miltyの場合は顧客が購入してくださっている本当の理由は何かしら?」

洋子:「購入に至る理由を一言で定義することはできません。例えばお客様の中に、デザイン系の会社を経営している方がいます。その方は別荘を持っていて、年に何度か別荘を訪れるたびに内装を変えたいということで、これまで何度か同じ物件で発注いただいたケースがありましたが、こうした個々の事情があるので……」

美保:「なるほど。現状では、主要顧客が明確に定義できていないし、購入理由もさまざまなケースがあるので一概に定義できていない」

洋子:「はい……」

美保:「じゃあmiltyの1番の課題は何かしら?」

洋子:「とにかく顧客数を増やすことです。そのために今は、Webサイトから購入までの導線をよりスムーズなものにできるよう見直しています」

美保:「主要顧客も購入理由も定義できていないけど、Webで集客したい……と」

洋子:「はい……」

美保は、微笑んだ。正直言って、洋子の事業に対しては納得できないことばかりだった。顧客像も顧客の購入理由も不明瞭で、課題もピントがずれている。それなのに、集客は増やしたいという。けれど、美保は明るく謙虚な洋子に好感を持った。まずは、現状認識をしてもらうために会話を続けた。


一通り洋子からの説明が終わった後、美保はついにmiltyの問題点について切り出した。

美保:「洋子さん、ストレートに言ってしまうと、アクセス数やメディア露出には何の意味もないわ。アクセス数もメディア露出も、顧客が購入するかどうかに直結しているわけじゃない。最も大切なのは、顧客が求めてくださるかどうか。これにつきるの。

『このサービスにはこんな価値がありますよ』と伝えるだけでは何も分かってもらえないわ。顧客が抱えている課題を解決してあげなければ、ビジネスは成り立たないの。洋子さんは、顧客も、顧客がなぜmiltyのサービスを使ってくださっているのかも、その背景にある解きたい問題も、何も分かっていない」

洋子は、あまりの言われように、思わず、反論が口をついて出てしまった。

洋子:「でも……ちゃんと市場調査はしました。調査では、たとえば2人に1人が、引っ越しを機にインテリアコーディネートをしてみたいと答えています。でも実際にそうできないのは、利便性と価格のせいだというデータも出ています。だから、手間が省けて価格が抑えられれば利用したいというターゲットに絞り込みました。コーディネーターが現地に向かって時間を合わせる手間も省き、オンラインで完結させることで価格も押さえたし。芸大やデザイン専門学校の成績優秀者を選抜しているので、サービスのクオリティにも自信があります」

美保:「その市場調査はどうやって実施したの?」

洋子:「まずは業界の統計データを拾い集めました。それから『こんなサービスがあったら利用してみたいか?』というアンケートも取りました」

美保:「洋子さん、まずあなたの『市場調査』の方法が間違っているわね。業界の統計データは、顔の見えない相手に対して行った調査に過ぎない。『アンケート調査』も、『これが欲しいですか?』『やってみたいですか?』と聞かれれば、誰だって『欲しい』『やってみたい』と答えるものよ。半数の人がやってみたいと答えたからといって、本当に半数の人が買ってくれるということにはならないわ。

それに、こういった調査では顧客の温度感が分からないわよね。サービスについて真剣に考えていない人は、表面的な理由しか思いつかないから、わかりやすい利便性や価格の問題にしているだけかもしれない。アンケート調査は鵜呑みにしてはダメよ。あなたの言っていることは憶測に過ぎないの。もっと言うと、問題なのは、その憶測を事実なのだとあなたが『思い込んでしまっている』こと。そして、その事にあなた自身が気づいていないことね」

洋子はムキになって言い返した。

洋子:「そんな……あれだけ苦労した市場調査が無意味だったって言いたいんですか? 顧客のニーズを何も拾えていなかったと? どうして、そこまで言われなくちゃならないんですか!」

美保:「あなたがたくさんの“市場調査”をしたのは分かる。でも、いくら統計データを見たりアンケート調査を実施したりしても、あなたが自分の手でつかんだ顧客の声じゃない。本当かどうかも分からない、何処かの誰かがつかんだ情報に基づいた憶測をあたかも事実であるかのように言ってはいけないの。何が本当に求められているのかを知りたければ、顧客に直接会って話を聞かなければならないわ。

あなた、顧客に直接会って話を聞いたことはないでしょう? 聞かなくても分かる。だって、あなたの話からは顧客の顔が見えてこないもの。そしてなにより売り上げがそれを示している。まずは会って話をして、顧客が抱える本当の課題を理解することから始める必要があるわ」

洋子は言葉を失った。


そのまましばらく無言の時間が流れたが、洋子は1つだけ言い返せそうな点を見つけて言った。

洋子:「けど、仮説がなかったら事業は始められませんよね?」

美保:「もちろん。でも、思い込みと仮説は違うの。思い込みは事実を掴んでいないまま、一方的に考えているだけの状態。仮説は事実に基づいて『こうかもしれない』という根拠があるけど検証していない状態のこと」

洋子:「……確かに、方法は間違っていたかもしれません。でも、考えてみて下さい! 安く手軽に質の高いインテリアコーディネートを受けられるとしたら……」

美保は、呆れた表情になることを必死に押さえて口を開いた。

美保:「安く手軽に質の高いインテリアコーディネートを受けられるとしたら……ってそれこそが、単にあなたの思い込みじゃない? それが『仮説』だと、これまでの私の話を聞いて本当に言える?」

洋子:「……」

美保は、これまで多くの起業家に同じような話を何度もしてきたことを思い返しながら話を続けた。

「人は、あなたが言うほどロジカルには行動しないものよ。あなたが言っていることは憶測だらけ。しかも、それが『思い込み』にまで発展してしまっているのがあなたの今の状態よ」

美保は、厳しいことを言い過ぎていることは自覚していた。しかし、素直に話を聞き、荒削りでも質問を繰り返してくる洋子にどこか昔の自分を重ねていた。

美保:「問題は、いいサービスが作れていないことではないの。人が心から求めているものが作れていないことが問題なの。あなたはオンラインで完結するインテリアコーディネートサービスを作って、市場調査の結果に基づいて合理的に設計したうまくいかないはずがない、と思ったかもしれないわね。でも、人はアイデアを買うのではなく、自分の課題を解決してくれる手段を買うの」

あなたはまだmiltyの主要顧客も掴めていない。それはつまり、存在していない顧客の課題を解こうとしているんじゃない?」

美保のマシンガントークに洋子は完全に言葉を失った。

私は存在すらしていない顧客の課題を解こうとしている?

そんな馬鹿な。私はちゃんと市場調査をしたはず——。


第1話のポイント
  • 主要顧客も顧客の購入理由も見えていないままサービスを作っていた
  • サービス設計に最も必要なのは顧客の“生の”声
  • アクセス数やメディア露出には何の意味もなく、大切なのは顧客に欲しがってもらえること
  • 統計データの集計やアンケート調査では、顧客の温度感がわからない
  • 第2話「顧客の声を聞け」はこちら

    第2話:顧客の声を聞け「あなたが聞いたその声は、本心だったのかしら?」——小説で読む起業

    *この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。